m-editの日記

加計学園問題を普通の女性として追及していきます。

webRONZAで憲法と生涯学習を語った前川さん

今こそ、前川喜平さんの憲法観をかみしめる

 子どもの貧困や朝鮮学校の授業料無償化について発言してきた前川喜平さんが、かなりまとまったインタビューに応えている。前半は加計問題における官邸からの人格攻撃についてで、これもとても重要なのだが、今回は割愛することにした。

 憲法歴史教育について、現在の改憲派への批判が述べられている。前川さんの講演録を聴くと改正前の教育基本法前文を引用していることがあるのだが、このインタビューでその理由がわかる。前川さんは、第二次安倍政権下で教育基本法の改正作業に携わった当事者でもある。つまり、相当に不本意な作業だったことだろう。と、またまた前置きが長くなったが、引用してみたい。

(聞き手 WEBRONZA編集長・岡田力)

 

増える「権力に操られる国民」 感じる1930年代的危機感

 

―前川さんは「1930年代に近い状況が生じる危険性がある」と発言していますが、理由はなんですか。

 

前川 1920年代というのは世界的に見て、1928年にパリ不戦条約が成立し、なんとか平和を維持できるのではないかとか、民主主義が根付いていくのではないかとか、人々がそういう気持ちを持っていた。日本でも大正デモクラシーがあり、政党政治も成立した。ドイツにもワイマール憲法があったし、ヒトラーはまだ出てきていなかった。人々が自由や民主主義や平和というものが何とかなるのではないかという希望を抱いていた時期だったと思います。

 

 それが1930年ごろを境にあっという間に暗転していきました。そういう危険って今もあるのではないかという気がしています。自国中心的な考え方がどの国でも強まってきているし、権力とメディアの関係も危うい国がたくさんあります。中国やロシアは自由や民主主義があるかと言えば、ないですよね。国民が民主主義を維持する担い手としての意識を十分持っていない。そういう国民があちこちにいる。権力に操られてしまう国民が出てきてしまう危うさがあります。日本もその危険性があると思います。特に10代、20代の若者、特に男子に危ないものを感じています。

  最近、外で声をかけられることが多くて、20人中19人までは好意的なのですが、好意的なのはほとんどが高齢者で、その大部分は女性です。ただ、1人くらいはネガティブなことを言う。「調子に乗るんじゃない」とかね。これは若い男性です。強いリーダーのもとに居たいという気持ちが強いのでしょうか。安倍さんはずっと強いリーダーを演じてきていると思います。言葉も刺激性が強い。アジテーションのような言葉が多いですよね。「1億総活躍」とか、「人づくり革命」とか、「岩盤規制にドリルで穴をあける」とかね。「レッテル貼り」とか「印象操作」と非難されますが、それを(安倍さんが)やっているでしょうと。岩盤規制という言葉でどれだけ泣かされてきたことか。そういう1930年代的な危うさを感じています。

 

70年持ちこたえた憲法 国民主権はかなり脆弱

 

―前川さんはいまの憲法を大切にしていると聞いています。

 

前川 僕は日本国憲法というのはものすごく大事だと思っています。だから少なくとも、今改憲しようと言っている人には改憲してほしくないですよね。憲法改正というのは、憲法を現代的なものにするためならいいですが。

 

 例えば、憲法では「すべて国民は」から始まっている条文と「何人も」から始まっている条文があって、人権の中には日本国籍を持っている人以外には保障されないものがあるという考え方があるわけです。憲法26条も「すべて国民は」から始まっています。そうすると在日朝鮮人の学習権は認められないとか、教育を受ける権利は及ばないとか、そういう議論をする人がいます。人権は人間であれば必ず保障されるようにした方がいいと思います。ただ、今改憲しようとしている人たち、特に自民党改憲草案を作った人たちには絶対に改憲してほしくない。

  だけど、日本国憲法を支えている国民主権はかなり脆弱だと思います。主権者としての自覚に欠けるというか自覚が不十分なまま来てしまっている危険性があるのではないか。それでも今の憲法は70年持ちこたえています。大日本帝国憲法より長く生き抜いていますから、結構がんばっていると思いますね。

  日本とドイツを比べたとき、日本の脆弱さを感じます。ドイツは1920年代に、当時最先端と言われた民主的な憲法を持っていたけど、そのワイマール憲法の中からヒトラーを生み出してしまった。民主主義が独裁主義を生んだという痛恨の歴史を持っています。その独裁はとてもとても考えられないような人道に対する罪を犯して、全世界に顔向けできないことをしてしまった。それをハンナ・アーレントとかエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』のように、ナチズムやファシズムをどうして生んだのかということを徹底的に考え、その上に戦後の民主主義をもういっぺん作り直した。日本は「1億総懺悔」で済ませてしまい、なぜみんなが軍国主義になびいてしまったか、1920年代のデモクラシーがどうして消えてしまったのか、そういうことへの反省が不十分だと思います。

 

必要なのは民主主義の潮流 期待したい「歴史総合」

 

 僕は今度の高等学校の「歴史総合」(2022年度から実施)には期待しています。今まで世界史が必修で日本史は必修ではありませんでした。しかも世界史も旧石器時代から始めるからフランス革命にたどり着いたところで3学期が終わってしまう。それではダメです。「歴史総合」は18世紀から現代に至る世界史と日本史を両方学ぶ科目なので、現代につながっている歴史を学べます。民主主義がどう培われてきたか。日本でも自由民権運動大正デモクラシーがあった。そういう民主主義の潮流が日本にもあって、戦後、日本国憲法が作られていく流れがわかり、それがいかに人類史的な意義を持っているかがわかる。

  改憲と言う人は「いまの憲法は自主憲法でない」と言い、「蒸留水のようで日本民族の血と汗が通っていない」と言いますが、憲法に民族性はなくていいと思いますよ。むしろ人類史の中で形づくられたものが日本国憲法だと見るべきで、例えば9条でも淵源は1928年のパリ不戦条約にあると思います。つまり戦争を違法化したという人類の知恵があるわけです。日本国憲法が人類の知恵の積み重ねの中で生まれたものだという意義を考える上では日本史と世界史を一緒に学んで近代民主主義の歴史や自由を獲得してきた歴史を知ることは非常に有効だと思います。さらに20世紀に入ると社会権が出てきますが、これはアメリカの憲法にもない。日本国憲法には25条や26条のように社会権が書き込まれている。それにはっきりした平和主義が書き込まれている。日本国憲法は最先端です。アメリカに押しつけられたというけど、アメリカよりずっと進んでいる憲法ですよ。それを「歴史総合」で学んでほしいと思っています。

 

 歴史を知ることで「鍛えられた民主主義」になるのではないかと思います。ドイツ人は二度戦争に負けていまの民主主義を手に入れました。そうすると日本はもう一度負けないと民主主義を手に入れられないことになりますが、それは、人類の歴史を学ぶことで回避できます。二度戦争に負けたドイツがどういう国づくりをしたかを学ぶことで日本をどうするかを考えることができるのです。

 

 近代立憲主義は、最初は西欧から始まったかも知れませんが、今や地球規模になってきていて、日本国憲法南アフリカの最新の憲法もそうなのだけど、人類史的な試行錯誤の中から生まれてきたと捉えるべきです。だから「日本人の憲法じゃない」という言い方はおかしくて、人類の憲法だと考えるべきです。

  私は、主権者としての自覚を持った人たちが育ってもらわなければならないと思っています。そして、それには教育とメディアが大きな力を持っていると思います。

 

知識を得るのはメディア 学ぶ権利を保障する側面も

 

―主権者を育てるメディアの役割とはどういうことですか。

 

前川 生涯学習社会と言いますが、人が学校を出てからいろんな知識を得ているのはメディアからです。テレビ、雑誌、新聞、それにネットです。人が生きていく上で学ぶ権利というものがあって、それは保障されなければならない。メディアはこの学ぶ権利を充足させる大きな役割を果たしていると思う。そのメディアが権力に侵されてしまうと危険です。僕は教育の現場が政治権力に侵されないようにすることに腐心してきましたが、まあ、随分侵されてしまいましたけどね。それで、むき出しの権力を抑えるものは合議制です。だから教育委員会という合議体をちゃんと置いておくことも大事だし、学校の中の職員会議も大事です。文科省で言えば、中央教育審議会とか大学設置・学校法人審議会とか、教科用図書検定調査審議会とか、そういう合議の場があって、大臣といえども合議体の結論を左右できないというルールを根付かせていくことが大事で、そうすることでむき出しの権力が教育の内容に及んでいかないようにする。そういうことを心がけてきました。旧文部省の人間は多かれ少なかれそういう感覚を持っています。むき出しの権力の危険性を感じながら仕事をしていて、ごく少数、権力になびく人間も出てこないこともないけれど、私の後輩の中でも健全な政治的中立性を保とうとする精神は宿っています。ですから文科省の人間には面従腹背は必要なのです。むき出しの権力に迎合しないために。

 

政治的に中立である、一つの政治的な権力に支配されないということはメディアでも同じでしょう。結局、民主主義のベースを作るのは教育とメディアだと思っています。

 

 2006年改正前の教育基本法の前文は日本国憲法の理想を打ち出していました。そこには、「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と書いてあります。「民主主義を担う国民を育てる教育をするんだ」というはっきりとした目的意識がそこに宣言されていました。戦前の軍国主義をすり込んだ教育への反省からです。そこはジャーナリズムも同じだと思います。ジャーナリズムも民主主義を担う国民を育てるものです。そのためには、健全な批判精神のようなものを常に保ち続けることがジャーナリズムの命だと思います。主権者教育で言えば、ジャーナリズムを教育に生かすNIE(Newspaper in Education=教育に新聞を)も大事で、文科省総務省とかけ合って、各学校に複数の新聞を取る予算措置をしたんですよ。東京新聞産経新聞とか、読売新聞と朝日新聞のように論調が違う新聞を学校で用意して読み比べる。ジャーナリズムを教育に取り入れることは大事だと思っています。

 

―健全な批判精神を育てる、ですね。

 

前川 そしてジャーナリズムの中に学ぶ権利を保障する側面があると思っています。私たちは、生涯にわたって、特に当事者性のある問題についてしっかりと考えることが大事です。いまだったら憲法改正もありますし、テロリズムをどう捉えるか、カルト問題とか、地球環境問題、食料自給率自由貿易第1次産業の保護の問題、少子高齢化での福祉、外国人労働者をどう捉えるか。そういう問題を、主権者である国民が自分の頭で考えていかなければならないのだという意識を持たなければならない。それは学校の勉強だけでなく、メディアを通じて入ってくる情報から考えるしかないと思います。メディアを通じて国民の中にさまざまな議論が起こっていくことが大事です。健全な批判精神のもとに我々の社会をどうやって創っていくべきか。しかも我々の中にどんどん外国人が入ってきます。もともと何十万の在日の人たちがいました。そういう人たちとも十分折り合いをつけていないのに、これからどんどん外国人が入ってくる時代に日本民族憲法などと言っている人々に政治を任せておいていいのかと思うわけですよ。多文化共生社会をどう創っていくかは日本社会が抱えている大きな課題だと思っています。