m-editの日記

加計学園問題を普通の女性として追及していきます。

ギャンブル依存症の父と過ごした幼年期

 幼い頃、すぐ身近にギャンブル依存症の人がいました。父でした。
 もちろん、母は子どもたちには隠していましたが、親戚が来て話し合いがもたれたりして、事情が少しずつわかってきました。私が小学校に入ったばかりの頃、父が常習的に賭けているのは「ケイリン」でした。すぐには理解できませんでしたが、ケイリンは、「競輪」で車券を買って自転車レースの勝ち負けを予想すること、ハズレと当たりがあって大金が失われてしまうこと、時折、病的にのめり込む人がいること、開催日は休日が多いこと等、徐々にわかっていきました。
 2年生の秋には、「今日が競輪の開催日」という日は、朝から憂鬱でした。心の中で「行かないで」と叫んでも、夕方が近づくと帰宅している筈の時刻になっても父が戻ってこず、「やっぱり行っていた」とわかるのです。母は競輪場に探しにいきます。負けが込むのを防ぐためです。姉と二人で近所の食料品店に行き、子どもだけで夕飯の準備をしました。その道すがら、先週、半狂乱になって泣く母に「もう絶対に競輪には行かない。止める」と父が誓っていた光景を思い出し、「あの言葉に嘘はない」と確信します。競輪を止めたいのは本心からだった、「だけど、また、行ってしまった」。何故なのだろう?何故なんだろう?と思いめぐらすうちに、そんな論理的な考察をぶち切るように、 
 「人間って悲しいなあ。生きていくのは辛いなあ」という思いが心の中にぶわぁっと湧きおこってきました。
 当時は、ギャンブル依存症という言葉もなく、幼児だった私はもちろん、周囲にも対応策を知る人はいませんでした。父は、実直で真面目な仕事人でしたし、明るく、やさしく、温かな家庭人でしたが、競輪にはまさにのめり込んでしまったのです。はじめは小遣いをつぎ込み、店(自営業でした)の回収金を使い込んだあたりで発覚し、親族に借金を申し入れ、生活費に手を付け、土地家屋を抵当に入れて銀行から借り入れをし…と雪だるま式に被害額は増えていきました。
 私にとっては、とても重い出来事で、記憶は混乱しています。6歳から7歳11カ月までの2年に満たない年月のはずなのですが、4年も5年も続いたような「長かった」記憶があるのです。
 店の回収金(未払いと処理されていた物件に母が請求に行ったら、支払いが済んでいた)で発覚した頃、父は一時的に行方不明になりました。父が帰ってきてしばらくは平和だったのに、また競輪に行き、母はヤケになって、私と姉に「今日は何でも買ってあげる」とデパートに連れていきました。その時、買ったのはバービー人形です。「何でも」と言われて、複雑な気持ちでした。7歳の誕生日の直前でした。
 2年生になった春のある日、母が私に「今日は、一人で学校に行きなさい」と言いました。父と離婚することにしたので、姉と家を出るというのです。二人を連れて行くのは無理だから、私は父の元に置いておくと。仕方がないと登校し、放課後になって家に戻ると、母は何事もなかったように、そこに居ました。朝、登校前に私に言ったことを母に確かめることができませんでした。ひとまず、母も姉も居るのだから、一安心です。それ以上、波風を立てたくなかったのでしょう。
 その頃から、競輪の開催日には父の挙動が不審になり、母が競輪場に探しにいくというのが「パターン」のようになってきました。二人が帰ってくると、うなだれて謝る父を、母が泣きながら座布団で殴る、背中を拳で叩くなどして責めるのです。姉と私は大泣きし、「お父さん止めて、お母さん、叩かないで」と懇願しました。私は父が本当にかわいそうでした。私以上に父を慕っていた姉は、逆に、父を情けなく思ったそうです。家族の修羅場です。 
 秋が来て、9月、姉の誕生日はケーキで祝うのが恒例だったのに、父も母も帰ってきません。深夜、叔父に伴われて母と父が帰宅。叔父が父に話す言葉から、事情がわかりました。母はその日、姉の誕生日でもあり、「今日だけは、競輪に行かないでいてくれるだろう」と判断したらしいです。だけど、また、行った。競輪場で父の姿を見つけた母は、糸が切れたようになってまっすぐに東尋坊へ向かい、断崖の上で警察に保護されたのでした。自殺未遂です。
 母は放心状態で、父を罵る気力も残っていないようでした。父は、このときも、叔父と母、私たち娘に「もう、絶対に競輪には行かない」と誓いました。
 こんな日々の合間に、姉と私は「お母さんもお父さんと一緒に競輪やればいいのに」とか、「行くな行くなと言わず、私たちも連れて行ってもらおうか」と話すことがありました。実際、母は父と競輪に出かけたこともあるらしいです。かけ金を渡したこともあったらしいです。そんなことに何の効果もありませんでした。
 父が親族(父の妹の嫁ぎ先に、母or娘が病気になったと嘘をつき)から借金したりして、ギャンブル依存は親族にも知れることとなり、父自身の信用や信頼は失墜してしまいました。幼い娘も含めて家族はとても苦しみました。それでも、止められなかったのです。その悲惨な日々は、突然、父自身の交通事故死でピリオドとなるのですが、あのまま父が生きていたらどうなっていたのか、想像してみてもイメージが浮かびません。
 あれから60年近い歳月が流れました。人類と賭け事は、深い因縁でつながっており、地球上に人類が繁栄してきたことと賭け事好きは表裏一体という面があるそうです。だから、私もギャンブルに反対する気力はありません。諦めています。だけど、ギャンブルは怖い。依存症は恐ろしい状態です。
 そんなことを、水原一平さんの報道に触れ、思い出しました。
#ギャンブル依存
#水原一平さんを責めないで